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三重県の鈴鹿市内の病院で東京オリンピックの真っ最中、どうもアベベ(マラソン選手)が走っていたときに生まれたらしい。鈴鹿市というと、今ではF1グランプリが開かれるサーキットで有名であるが、生まれた当時は何もない田園都市であった。母親の産後の調子が悪く、そのまま母子共に入院したらしく、いきなり半年間の入院を経験した。(ずーっと、寝ていたためそのとき頭の形が絶壁になったらしい) 親には悪いが、安直に名前をつけられたと今でも思っている。「秀」は優秀になるように、「二」は次男だからと後に説明を受けたが、「何をやっても二番目に優秀」という命名につい考えてしまう。
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小学校時代はサッカーに夢中であった。今でこそJリーグやワールドカップなどと人気スポーツであるが、昭和50年代の初めは非常にマイナースポーツであった。ベッケンバウアーや若き日のジーコ、ソクテラテスなど滅多にテレビでお目にかかることは無かった。 一番の思い出はオール鈴鹿チーム(一応、鈴鹿市のベスト11)の一員として、当時から有名であった静岡県の清水フットボールクラブとの交流試合である。相手は2軍格の5年生チームであったが、とにかくドリブルがうまくスイスイ抜かれ二桁得点を喫して負けた記憶がある。 6年生の時は生徒会長になった。運動会の挨拶で初めて全校生徒及び父兄の前に立ったとき頭が真っ白になって覚えていた挨拶文を全て忘れてしまい、口から出任せをしゃべったらしい。(後で先生から言われた)今思えば、社会人になってから人前で喋ることが苦にならないのはその時の経験が大きいような気がする。 また、年に2回、運動会と卒業式のときに鼓笛隊が編成されるときにいつもカッコ良いからという理由でトランペットを吹いていた。これが、後の人生を大きく狂わせるきっかけとなった
中学校に入学した時、サッカー部に入りたかったがマイナースポーツのため部が無かった。中学入学時で身長は170cmで、他にバスケット部、バレー部からの誘いもあり、また足も速かったため陸上部からの誘いも強かった。(今となってはすべてが遠い過去です) しかし、自分が選択したのは吹奏楽部であった。トランペットを持っていたこともあり、また華やかで且つ女生徒比率が高かったのも一因である。 中学、高校の6年間はとにかく吹奏楽命であった。8月に行なわれる県の吹奏楽コンクールを目標に1学期から土日返上で練習し、秋の文化祭、冬のアンサンブルコンテストと年間通じて忙しかった。 高校時代は毎朝7時に学校に行き、1時間30分の朝練、早弁をして昼休みに1時間練習、放課後は約2時間の部活動と練習に明け暮れた。土日はほとんど無く、朝9時から夕方5時までみっちり練習した。高校3年の夏休みは、最後のコンクールということもあり特に力を入れた練習を行なった。そのため受験勉強はまったくしていなかった。担任の先生からは「浪人を覚悟したか」とさじを投げられたが、おかげで数年ぶりに三重県大会を勝ち抜き東海大会に進むことができた。9月の東海大会を終え、そこからが大学受験勉強の開始であった。準備期間が無いため、あれこれ考える暇がなく、また受験科目の異なる私立大学を受ける余裕も無かったため地元の三重大学一本に絞った。これが功を奏してなんとかギリギリで合格できた。
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地元の三重大学に入り、吹奏楽は卒業してオーケストラ に入団した。楽器もトランペットからホルンに変わっていた。吹奏楽の花形はトランペットであるが、オーケストラの花はホルンである。ここでもやはり燃えた。プロのレッスンを受けたり、名古屋、大阪まで活動範囲を広げて演奏活動を繰り広げていた。 |
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ホルンの腕前は大学1年次からトップを任され、東海地区の大学オーケストラの選抜による連合演奏会でも2年連続でトップを吹いた。特に日本を代表する指揮者である外山雄三氏の指揮で吹いたショスタコービッチの第5番交響曲、同じく故山田一雄氏の指揮で吹いたマ−ラ−の第5番交響曲は一生の思い出である。(しかし、現在はボロボロです。)
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大学までで前編とします。来年からは博士課程後期に進学予定であり、来年以降のSOSに続きを書きたいと思います。 2年間はあっという間でした。非常に出来の悪い学生であり、樋口先生には大変申し訳なく、また樋口研の皆にも大変ご迷惑をおかけいたしました。博士課程後期は気持ちを入れ替えて心機一転励むこととします。新たに社会の出る築山さん、古庄さんがんばってください。島宗君も会社でがんばってください。 |
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