第34回(2008年度)宋代史研究会夏季合宿の記録

御参加の皆様、ありがとうございました。
(2008年度宋代史合宿幹事 山根直生)

【開催日時】 2008年8月18日(月)~20日(水)


【開催場所】 湧水 千石の郷
    〒811-1132 福岡市早良区石釜333-2
    TEL 0120-26-1593  代表電話 092-872-4141
    webサイト 
http://www.sengokunosato.com/

【参加費】 
 全日程参加 一般(学振PD含む) 25,000円  院生・学部生     22,000円
 一泊二日   一般(学振PD含む)  16,000円  院生・学部生     13,000円

 合宿不参加でレジュメ送付希望    1,000円
  宋代史研究会年会費          1,000円

 

【日程および報告】(講演・報告・総会はすべて2Fさくらホールにて)
 8月18日(月)
      14:00 博多駅より送迎バス発車
      15:00 チェックイン開始
      18:00 夕食(1Fつつじの間にて)
      19:00~20:30 講演「南宋政治史研究三十年」(寺地遵・広島大学名誉教授)
      21:00 小懇親会(宿泊室105にて)
 8月19日(火)
      08:00 朝食(2Fレストラン姫蛍にて)
      09:30~11:00 報告「南宋高宗朝の隆祐太后孟氏について」(清水浩一郎・東北大学)
      11:00~12:30 報告「茶寇は茶商か-茶寇よりみた南宋長江中流域の社会と経済-」
                                      (樋口能成・早稲田大学)

      12:30 昼食(1Fつつじの間にて)
      14:00~15:30 報告「徽宗朝・崇寧五年正月の政変」(藤本猛・京都大学)
      15:30~17:00 報告「宋孝宗“臧否”試述」(包偉民・浙江大学人文学院歴史系教授)
      18:30 夕食・懇親会(1Fつつじの間にて)
 8月20日(水)
      08:00 朝食(2Fレストラン姫蛍にて)
      09:00~09:30 総会
      10:00 解散

【講演・報告要旨】  
○寺地遵「南宋政治史研究三十年」
 G・R・エルトンによれば、政治史家の第一の任務は、さまざまな政府の運命を跡づけることにあるとされる(『政治史とは何か』)。南宋政治史に限定していえば、秦檜から賈似道までを、一元化された問題意識に沿って着実に追跡するということになる。近時、論者は賈似道についても一定の展望を得ることができた。秦檜・韓侂胄・史弥遠・賈似道研究の中で感じた若干の感想と、残された課題──①孝宗とその時代、②内藤湖南学説(近世「君主独裁政治」論)と南宋政治史の齟齬──の提起などが、本報告の前半部分である。
 後半部分は、近三十年間、南宋史・南宋政治史・社会史を断然と推進し、いわば南宋史研究の景観を一変せしめた黄寛重氏の仕事の全貌を、氏の展望的論考、「南宋史研究与教学的幾個問題」(1993)に沿って解説する。氏の研究から少なからざる影響と知的刺激をうけた論者としては、黄氏の南宋史研究の成果は次世代の研究者にとっても、研究世界の拡張と展開に必ずや有効にはたらくものと確信する。


○清水浩一郎「南宋高宗朝の「太后」孟氏について」

 本発表の目的は、哲宗の元皇后である孟氏(煕寧六年~紹興元年:1073~1131)の後半生―特に北宋靖康二年以降、南宋紹興元年まで―を端緒に、南宋最初期の政治史を検詳することにある。
 従来孟氏は、高宗即位に際して皇位継承の正当性を保証した存在である、とされてきた。このように孟氏を位置付けるのは、南宋が旧法党政権であるとの理解とも関連している、といえよう。しかし後者はともかく、前者については、南宋政権発足以後彼女に与えられた尊號(「元祐太后」・「隆祐太后」・ 「隆祐皇太后」)の変化に着目し、改称に伴う議論や事件を勘案すると、孟氏が当初から高宗在位の正当性を後押ししていたとは考えにくい。結論の一部を先取りするなら、孟氏が高宗在位の正当性に影響力を及ぼしたのは、おそらく「明受の変」以後のことであろう。更にいえば、高宗即位当初、特に彼を擁立した士大夫にとって彼女の存在は、政治的利用価値があると同時に危険分子でありえた、とさえみなしうる。
 そこで本発表では、孟氏の複数の尊號及び改称の経緯を主な検討課題として取り扱う。この分析を通じて、南宋における孟氏の位 置付けを再考し、高宗即位に孟氏の存在が影響していたという「虚構」について、南宋がかくせねばならなかった必要性を論ずることとしたい。



○樋口能成「茶寇は茶商か-茶寇よりみた南宋長江中流域の社会と経済-」
 一般に茶寇は国家に抑圧された茶商の反乱だと言われている。南宋の茶商は高価な茶引の購入を義務付けられただけでなく、政府機関の財源確保を目的とした茶引の強制販売にも対応しなければならず、よって常に困窮し、ついには蜂起に至ると考えられてきた。
 しかし茶寇が発生した湖北路・湖南路・江西路の茶引の販売状況を調べた結果、低価の茶引は販売不振で、また茶引の販売数・種類は常に売れ行きに最適化されていた事が判明した。こうした茶引の販売状況は、これまで考えられてきた茶寇の原因を否定する。
 そこで茶寇を再検討すると、茶寇とは興国軍、常徳府(鼎州)、州の盗賊で、自然災害を発生の直接の 契機とする事が分かった。また茶商についても、山間部の人々が茶商塩商等と自称して各地で盗賊行為を働 く例が多数見られた。彼等は恐らく村落の有力者を頂点とする結社から派生した集団で、商人或いは盗賊となる事で郷里の経済的脆弱さを補っていたのである。
 本報告による茶寇の検討は、南宋における末端の商活動の一面を提示するのみならず、後の茶商軍の性質にも示唆を与えるものとなるだろう。


○藤本猛「徽宗朝・崇寧五年正月の政変」

 崇寧五年(1106)正月、開封の上空に彗星が出現し、当時宰相であった蔡京が失脚した。これは深夜に徽宗が突然「元祐党籍碑」の破壊を命じ、翌朝出仕した蔡京がはじめてそれに気付いたとされ、まさしく上からのクーデタともいうべき政変であった。
 従来の見解では、この政変は彗星出現に怯えた徽宗が第一次当国期にあった蔡京の「姦悪」に気付き、その排除をはかったものとされている。つまり、すべての原因は迷信に惑わされる徽宗の性格に端を発したものというのである。このイメージは暗愚な道楽天子としての徽宗像と重なることもあり、特に疑問を持たれることもなかった。
 しかし今ひとまずそのバイアスを持たず、当時の政治状況を仔細に考察してみれば、この崇寧五年正月の政変をさかいに、北宋朝廷の国家政策が大転回していることに気付く。それはこれまで蔡京失脚と結びついて注目されていた国内の新法諸政策の見直しだけではなく、対外政策に関するものであり、これこそが崇寧五年の政変をもたらした原因だと思われる。今発表ではこれまであまり注意が払われてこなかった蔡京・第一次当国期終了の原因を、当時の対外政策に注目して考察を加えたい。


○包偉民「宋孝宗“臧否”試述」