きちんとした変態
およそ50年以上も前(自分の年を痛感)の話であるが、当時中学生であった従妹から良い成績を取る秘訣を聞いた。なんでも試験でオタマジャクシからカエルになると何が変化するのか、という設問が出たらしい。優等生的な回答では、四肢が生える、食性が植物性から動物性に変わる、エラ呼吸から肺呼吸に変わる、などが考えられる。ところが従妹の同級生の一人が、「行動範囲が広くなる」と回答したらしい。採点結果は、なんと二重丸であった。いまこの回答に二重丸を与えてくれる先生が、大学も含め、いるだろうか、ということを言いたいわけではない。その当時はよく分からなかったが、この回答ならびに採点こそが、大人になること、の本質を示していると、つくづく思われる。
思えば、家から徒歩圏内の小学校に通い、自転車通学の中学校に通い、電車通学の高校に通い、下宿生活の大学に通い、所謂大人に近づくにつれて行動範囲が広くなって行った。大学院の時には、ニューヨークからロサンゼルスまで、移動したことがある。もっとも滞在期間は3週間弱であり、途中知り合ったアメリカ人からは、なんでそんなに早く帰るんだ、と聞かれた記憶がある。
このように個人的には順調に行動範囲を広げていたのであるが、就職したとたん非常な違和感が襲い掛かってきた。なんと、研究所のほとんどすべての先輩・同僚が、毎日自宅と会社の間しか往復していないのである。これはどうも、それが会社に貢献する普通のあるいは正しい姿勢と、なんとなく認識しているためであろうと思われる。個人的にはこのような風潮にはどうしても馴染めず、学会だけでなく無料で参加できる研究会や報告会、展示会を探して、よく研究所を抜け出していた。ただ、どうもこのような常識は企業だけはないようである。前述のような行動をとった結果として、常に挙動不審者のように見られ続けられている感はある。
しかし、自ら行動範囲を狭くすることは、やはりオタマジャクシに戻っていると言えるのではないだろうか。あるいは大人への変態を途中で止めていることにはならないだろうか。どの時点で大人になったと判断するかは、個々人の裁量ではあるが、さらに人に語れる経験を持つ大人になる道を閉ざしていると思われる。
もっとも、この記憶を50年以上持ち続けていたということは、自由に行動することに対する要求が極めて強かったということかもしれない。ただ、これから社会人になろうとする学生さんには、貪欲に大人になることを躊躇せずに継続し、変態を完成してもらいたい。
24時間戦えますか
以前にも記したかもしれないが、小テストやレポート以外にも、毎授業ごとに質問をポータルで受け付けている。もちろん授業内容を復習してもらうことが第一義の目標ではあるが、その他にまず質問をすることがコミュニケーションの第一歩だと思っており、内容は講義には拘っていない。そのために、どちらかというと進路や就職に関する質問も多く、まぁそれはそれで意味あることと考えているので、ジャンルを問わず、遠慮せずにどしどし質問を投げかけてほしい。
質問を眺めていると、同時に今どきの学生気質などを知ることもできる。例えばe-スポーツなどは、学生さんからの質問で初めてこれほど盛んになっていることを再認識することができた。そのような中で一つ気になった質問に、「配属されたら、週何時間研究室に行けば良いのですか」とか、「大学院生は毎日何時間研究室にいなければいけないのですか」というものがあった。回答は、「自分で考えましょう」しかないが、4年生や大学院生にもなってもこの受け身の姿勢は如何なものか、と考え込んでしまった。確かにコアタイムというものを設定している研究室が多々あることは承知している。しかし設定しても来ない学生はいるようで、効き目はどの程度かはよく分からない。毎日決まった時間に研究室に行って、下校する。そして就職してからも決まった時間に会社に行って、帰宅する。それが研究室や会社に貢献している姿勢になるのだろうか。学畜から社畜にそのまま移行しているような気もするところである。まぁ、もっとも教員や上司がそのようなタイプかもしれない。その場合はその方が社会的に課題が残るような気もする。
実社会に出てからは、与えられたテーマをそつなくこなすのは勿論であるが、それ以上に自分でユニークな、誰も手を付けていないテーマを作り出し、取り組める能力が、これからはますます求められるようになる。自分の食い扶持は自分で稼がねばならない、という意識が大切になる。
勿論教員や上司も、何がもっともパフォーマンスを引き出せるのか、という、ある種のプロ意識が必要であろう。顕著な仕事の中には睡眠や休憩も含まれるのである。
それも意識して、これからの日本はもっと働かねば。
狐と狸
極めて当たり前のことながら、毎年年齢が一つ重なっていく。それ自体はまぁ、受け入れざるを得ないが、同時に活きの良い学生さんが配属され、研究室の一員となってくれる。ただ一方で気心がやっと知れてきた修士の学生さんが去って行くのは何とも物悲しいものである。
我々の研究室の特徴ではないかと思っているのだが、卒論生の時にはあんなに素直だった学生さんが、修士2年生ともなると実に、ある意味インデペンデントになり、研究方針にしてもついつい「こうしたらいいんじゃないかな」とか「こうしてくれないかな」と、お願いベースになってしまう。
若干もどろっこしいところはあり、成果が出るまでに余計な時間がかかっているような気もているが、逆に私では絶対に見出せなかったであろう成果が実際に得られていることは間違いない。この4年生から修士2年生までの学生さんたちの自己実現力・成長力は、既にそれを失った身からすれば、常に驚きである。つくづく「老いては子に従え」という格言はよくできたものだ、と感じいる時がある。
しかし一方で、このような格言があるということは、上記のような体験をしない、あるいはすることを拒絶している年長者が多いのが世の常ということを示していると思われる。また逆に若い人も、年長者に対して無批判で素直でありすぎるのではないか、とも思う。
基本的に年長者はその経験知により、若輩者を言いくるめることに長けている場合が多い。言い方は悪いが、まぁ、無意識ではあるが適当にだまくらかしているのである。若い人はそれに打ち勝って自己を確立することが大切ではないかと思う。
若い人は思っていること、望んでいることを、あきらめることなく年長者に訴え続けてほしい。中にはそのような訴えに応えることを生きがいとしている年長者がいるはずである。そうして切磋琢磨する、あるいは一種騙しあうことを続けることで、研究開発・技術革新も大いに進むはずである。
なお、私は精神的には応えたいと思っている。それは信じても良いんじゃないかなぁ。
地蔵か閻魔か
以前海外からの観光客の日本人に対する印象として、日本人は質問ばかりしてくる、というものがあった。つまり、「日本料理では何が好きですか」と聞いてくるので「天ぷらが好きです」ろ答えると、フーンと言って次に「どこの観光地が好きですか」と聞いてきて、会話にならない、ということである。これはこれで反省すべきではあるが、まず見知らぬ人とコミュニケーションを取るときには、質問することが有効な手段であることが示されている。それも踏まえ、授業やレポートで自由な質問を受け付けている。ところがこれは学生さんたちには意外とハードルが高いようで、「変な質問をしたら減点されませんか」という用心深い質問が来ることもある。言明しておくが、質問は減点することはなく、内容によっては加点につながる可能性がある。
一方で、現状の学生さんたちがこれまで受けてきた教育というシステムの課題も浮き彫りにしてくれる質問もある。つい最近では、講義の無い日は何時間大学にいるべきなのか、大学院生は週に何回大学に通うべきか、という質問が来て少し驚愕した。もしこれを堂々と指導できる教員がいたら、私はその方をある意味尊敬してしまう。
確かにサラリーを貰っている会社員なら、就業時間は規則で決まっている。しかし学生さんはお金を払っている方である。どうしたら払っているだけのお金に見合う、将来にわたって世の中を生き抜いていくための知識・技量・能力を会得できるのかは、自分で考え、もし足らなければ要望すべきものではないだろうか。まぁ本音で言えば、会社員であっても唯々諾々と従っているのではなく、自分のパフォーマンスを最も発揮するためには、会社の規定はどうあるべきであるかを考えて、提言すべきであろう。どれだけ自分の存在した足跡を残していけるかが勝負である。
我々の研究室では、このような今後に生きる自主性を是非発揮してもらいたいということで、学生さんたちからの要望をよろず受け入れることをモットーとしている。是非いろいろな提案をしてもらいたい。もっとも浮世(地獄?)の沙汰は金次第とも言う。聞くだけで応えきれない要望もあるのでそのあたりは承知しておいてもらいたい。
三食食べる重要さ
特にご時世に逆らっているわけではないのだが、月に1~2回は東京方面に出向く生活を続けている。大学にいるときにはほとんど何も考えずに日替わり定食を昼食に取っているので、出張時は何を食べるかを考えるのが非常に面倒くさく、たまに抜いてしまうことがある。その他にもいろいろと面倒なことはあるが、一方でちょっとした非日常を味わうことで思わぬ発見があり、リフレッシュすることができるメリットもある。
東京への行き返りは当然飛行機を使うが、この約2時間をどう過ごすかも結構難題である。飛行機会社もそのあたりは心得ていて、色々なビデオコンテンツなどを用意してくれている。その中で昨年はまってしまったのが「同期のサクラ」という、高畑充希主演のTVドラマである。内容をよく知っている人も多いと思うが、短く述べれば、若い会社員たちが自分たちのやりたいことをまっすぐにやり遂げるために、人間関係にもまれながら、切磋琢磨してやり遂げる、という話である。
それ自体には何の文句もないのだが、結局彼らはこの過程で、胸弾ませて入社した大手建設会社を、一人を除いて全員辞めるのである。つまり、自分のやりたいことをやりたければ、大手企業に勤めていてはできない、逆に大企業に勤めている人間は、自分のやりたいことをやっていないじゃないですか、ということを述べているドラマであった。では、彼らの中で社長になった人はいたのか、というとどうもそうでもなく、主人公もサラリーマンを続けているのである。
まぁ、このあたりがTVドラマの限界かもしれない。しかしイデオロギーに染まっていては、明日の食事にも事欠くことになる。現実的に仕事をこなして、ちゃんと昼食を取る生活を維持する方が、結局は大事をなせるかもしれない。
これからの集う意義
リモートワークだけでなくAI化やロボットなど、これからは人が実際に自分の手に何かを持って作業をするような職種は極端に減少していくと考えられる。大学においても、非常に教え方の上手な教員によるリモート授業やオンデマンド授業が他大学にも広く公開されるようになれば、各大学で個別に教員を雇用する意味合いが低下していくと考えられる。これまでも放送大学があり、また予備校でもオンデマンドが一般化しており、知識を伝えるためには、この方式でも充分であることはある程度は認識されていたと思われる。ただこれまでは、「大学とはキャンパスに集うもの」という慣習が支配してきただけであろう。確かに確立した知識・教養を身に着けるためには、自分で関心を持って自学・自習するのが一番効果がある。その時の相手は、本であっても良いしYou
tubeであっても良い。
しかし、その知識を活かして実際に世の中を活きていくためには、実践練習を行うことが不可欠である。サラリーに限らず労働の対価であるお金とは、本来あまり払いたくない人(多くは経営者や資本家)から、ある意味騙しあるいは妥協させることで、その懐から半ば無理やりむしり取ってくるものである。出来れば気持ちよく騙す技量が、お金を受け取る側には求められる。そしてこの技量は、実際に人と接して練習を行うことなく身に着けることは至難な業である。小・中・高と行われる集団教育は、知識の伝承の場という形式を借りながら、実はこの対人関係の練習を行う場という側面が大きく、大学はいわば最後の仕上げの場、と考えることができる。大学に集うことの意味の大半はここにあると考えても良く、オンサイトの授業はそのためのきっかけづくりと考えても良い。
もちろん理系であれば、AIやロボットがどうしてもこなせない、研究という技量を身に着けることも重要である。その時もより大切なのは研究の内容ではなく、研究を遂行するスタイルを学ぶことが将来より役に立つ可能性がある。要は将来起こりうることを見据えて、どのような状況でもしたたかに生き延びる術を見抜き、身に着ける技量が、これからは問われるようになる。
多くの人と混じり合う機会が、より重要になると考える所以である。
贅沢な悩み
あまり時事に直結するものではなく、普遍的な事象を取り上げることモットーとしているが、このコロナ騒動だけは別格である。
思えば人類の歴史は、行動の自由、集会の自由などを獲得することを目的として歩んできたと考えることができる。このいわば基本的人権が制限されていることに、大きなストレスを感じている人も多いと思う。まぁ、そんなときには何も考えていそうもない犬や猫の動画を見ることが結構効き目がある。いや、考えていないのではなく、逆にこれら動画が面白いのは、彼らが一生懸命考えて行動しているのが人間の目から見てちぐはぐになっていることが笑いを誘うのだと思う。常日頃、生物・無生物に関わらず、この世に存在し続ける権利はすべてのものにある、と言っている割には、非常に失礼なことを書いてしまった。ここに心から動画に出演し、笑いを与えてくれた犬と猫に陳謝したいと思う。
彼らの行動を見ていると、分かることが一つある。それは、おそらく彼らには「明日」という時間の概念が無いために、今その時を精一杯考えて行動しているということである。犬がカレンダーを見て、今日はめんどくさいから明後日から頑張ろう、と計画している動画は見たことが無いし、多分存在しないだろう。つまり明日があるという概念は人間だけが持っていると言える。実はそのために計画の先延ばしやそれに伴う後悔が生じてしまうともいえる。
しかしよくよく考えると、明日が保証されているかは、人間にとっても本当は不確実である。つまり、いまこの時どのような行動を取るかは、他人ではなく、自分でよく考えてやっていくしかない、ということである。
後悔というのは、実は贅沢な時間つぶしの悩み、ともいえる。
大事な習慣:朝の歯磨き
夏目漱石の「草枕」という作品のような始まりではあるが、朝、デンタルフロスを使いながら、こう考えた。
ちなみにデンタルフロスの使い方を説明すると、糸巻きから適当な長さのフロスを取り出し、この両端を左手と右手の人差し指か中指に巻きつけて固定し、歯間を磨くという歯科衛生品である。この時、実際に歯間を磨く部分はせいぜい2cm程度であり、その他は単に支えとして使っているだけである。つまり役立っているのは1/10にも満たない部分であり、しかしながら歯磨きが終わると捨てられてしまう、じつに効率の悪い道具である。
さて、しかし逆にこの実際の歯磨きには役立っていない部分が存在しないと、デンタルフロス自体が成立しないことになる(それを見かねて作り出されたのが糸ようじ)。デンタルフロスの立場に立って考えると(考えるか、という命題はまた追って取り上げるかもしれない)、自分が歯間を磨くというもっとも重要な仕事をする個所になるのか、指に巻き付けられる場所になるのか、あるいはただそれらの間にあるものになるのかは分からない。人間が手にして適当に切り取って手に巻き付けて、初めてそれが明らかになる。これは一種の運命ともいえる。歯間を磨く役目に当たったものは、一番重要な仕事をしているわけで、誇らしいかもしれない。手に巻き付けられている個所は、その次ぐらいであろうか。しかし、これらすべてがそれぞれの役目を果たすことで、デンタルフロスが成り立っている。
何を当たり前のことをグダグダ言っているかというと、人間社会もまさにこのような関係ではないか、ということである。聢と分からない場合でも、周りの働きにより自分の現時点での生活・仕事が成り立っている。しかもその範囲は、考えれば考えるほど広範囲に渡っていることがわかる。もしかすると非生物にまで及ぶかもしれない。
まぁ、しかし朝は忙しい。あまり深刻にならないうちに切り上げて、遅刻しないようにすることも大切である。
変わり者事始め
研究を行っていると意外と卒論段階で非常に面白い発見がある。特に新しい卒論生が新しいテーマに取り組んだときにそのようなことが多く発生する。まだ原理などの理解が十分でない学生さんによってなされるので、ビギナーズラックというものがあるのだなと、ごく簡単に考えていた。しかしよくよく考えると、これは当たり前ではないか、と思い当たった。
全く初めてのことを行うのである。結果は新しい発見に決まっている。つまり重要なことは、新しいことを始めた、ということにある。そう言えば企業でも引きの良い人というのは必ず存在する。今までは運が良いなぁ、と片づけていたが、これも同じような現象である。つまり引きの良い人は、新しく挑戦することを厭わなかった、ということである。
逆にどうも引きが悪いという人もいる。その大概は、思い切った挑戦をするのではなく、小出しに実験を行い、まずこれまでの前例や文献値を再現できるかを確認し、できなければ難しいとあきらめ、異なる結果が出れば失敗だとあきらめてしまうというパターンである。あるいは再現性をしつこく追及するという行為も如何なものかと思う時もある。
研究は、極端なことを言えば、異常値を見つける行為である。あるいは失敗して当然、という条件で挑戦することでもある。その中でわずかに自然が見せた隙を見逃さないことが重要である。
新しく研究に取り組む人は、全てがビギナーである。つまり幸運が待ち構えていると思って間違いはない。多少理屈が分からなくても構わないので、積極的に体をフルに使って実験を行ってもらいたい。勿論4年生や修士1年生の段階では、何が異常かが分からないことも多くあろうと思う。その時は素直に全ての実験結果をさらけ出すことが一番良い。
世紀の大発見になるか否か、は分からないが、少なくとも変わったやつだという良い評価を得ることはできる。それもまた幸運の始まりと思えば良い。
違法行為に注意
定期試験では、自分の担当した教科も含め、大体4回試験監督をしなくてはならない。不正行為がないかを見回るわけであるが、ついでにいろいろな教科の出題を見ることができ、このような出題もいいな、という教訓を得ることもある。また学生諸君の回答も垣間見ることもあり、心の中で「フンフン」と同意している時もある。
この期も試験監督をしていたわけであるが、数学の問題に ∫sinxcosxdx
を解け、というものがあった。私の知るところでは、sinxcosx=1/2 sin2x
の3角関数の加法定理を使うことで、極シンプルな積分問題に変えてしまうのが常套手段であった。当然そのような回答があるのだろうと見ていると、全ての回答が、t=sinx
とする、置換積分で回答を行っていた。確かにこれでも非常にシンプルな積分問題になってしまうので文句は全くないが、全員が同じ解法で説いていたということは、理屈ではなくほぼ条件反射的に解いていると思わざるを得ない。
将来どの程度使用するか否かは分からないが、数学は各人それぞれ得意な解法があってしかるべきである。またその方が身に着く実力となり、応用が効く実践的な能力となる。
大学で学ぶ知識は、大体このようなことになっているよ、という、謂わばこれから実社会を生きていくうえでの約束事であり、常識である。しかしこれはあくまでも常識である。常識は必ずしも真実ではないということを肝に銘じておかねばならない。そして独自の自由な発想のための余地を確保しておくことが大切である。常識に従って発想での処理ならば、データ量がはるかに多いAIの方がはるかにましな判断をするであろう。
仮に現状の大学教育が学生諸君の自由な発想力を奪っているならば、それは忌々しき問題である。逆に自由な発想をすることを避け、縛りのある境遇に自ら赴いているとすれば、それもまた情けない話である。
大学は勉強を強いられる場所ではなく、学習する場所であったほしいと切実に思う。
因みに、公共交通機関では上記のような解法は固く禁じられている。(?)
小テスト予告
某サイト情報によれば、私の授業は謎のレポートを多く提出させるということになっているらしい。断っておきたいのだが、最初から謎めいた課題にしたわけではなく、就任当初は極まともな課題を出題していた(と思う)。しかしその結果としてのレポートが、見るも無残にコピー・ペーストだらけであった。何度も書いているようにレポートは出題された課題に対して、勿論調査は必要であるが、その調査結果を踏まえての自分の考えを述べることが、もっとも大切である。座学で教員が言ったことをそのままテストで吐き出して、そして忘却することが主な学部の授業において、レポートとは数少ない自分考えや思いを出せる機会である。何故これを有効利用しないのか甚だ疑問であったが、そこは常に自分を顧みて反省することをモットーとしている。いやこれは思わずコピー・ペーストしたくなるような出題をする方にも問題があると考え、今のような出題形式に変えて行ったのである。
その際たるものの一つとして、「最近読んだ本の感想を書け」という課題がある。最も自由な発想・考えを書いてもらおうという意図である。ところが驚愕したことに、先日この課題のレポートに、全くの他人がwebに掲載している感想をコピー・ペーストしてきた学生が2名も出現したのである。見て分かりますか、という質問を受けることがあるが、見たら大体分かる。理路整然として立派過ぎるのである。
何故自分の思いや発想を表現することを躊躇するのか。
その原因の一つに、言葉を使い慣れていないことがあるような気がしている。人間はものを考える時に言葉で考える。逆に言えば、言葉を知らないと考えられないのである。嘘だと思ったら、言葉を使わずに考えることができるかをやってみればよく分かる。ということは、語彙が少ないと発想が貧弱になる、ということである。発想が貧弱だという自覚が生じると、これを表に出すことに躊躇が生じる。
短絡的な結論ではあるが、この事態を回避するためには語彙を増やしてもらうしかない、ということになる。まずは授業や小テストから取り組みたいと、後期を迎える今、考えている。
教科書を買おう
先般レポートで、漫画で得た教訓をしみじみと語ってくれたものがあった。まぁ、たしかに漫画でも紆余曲折のストーリーが展開され、主人公が悩み、解決策を探りえる過程などが描写しているものもあろうから、無下には否定できないところがある。あるいは非常に重たい社会的なテーマを取り上げたものもあるので、そこから得られる知識は評価に値するとも考えられる。これとほとんど同じことがテレビにも言えるかもしれない。クイズ番組や海外ロケなどは、種々雑多な知識を得ておくには有益である。
思い返せば、学生時代はちょうど少年誌が最も隆盛を極めた時期でもあり、例えば亀有で有名な秋山氏が「山止たつひこ」名で発表した第1話をリアルタイムで読んだ記憶がある。しかしある時期、多くの漫画を支配する、「主人公は死なない」、「ヒロインは悲しむ」という原則に気がついて、急に興味を失った。もしこれに当てはまらないものがあるならば、逆に教えてほしいぐらいに、この原則は成り立っている。実は小説にもある程度この原則は成立し、人間の想像力、あるいはそれよりも読者の許容力の限界を示しているものかもしれない。
さて、テレビ、漫画(絵付き解説読み物)、本(字のみ、時々さし絵付き)は同じように情報を与えてくれる媒体であるが、目から得る情報量を勘案すると、大体この順番に与えてくれる情報量が多い、と見なすことができる。まぁ、インターネットから得られる情報は、時にはテレビであり、時には本であるので、状況に応じて判断してもらうことになる。何もすることがない時に、ついついテレビをつけてしまうのは、あまり頭を使わなくても向こうから情報を与えてくれる量が多いので、満足してしまうからであろう。インターネットでも動画を見ているときは、この状況にあると考えてよい。
一方で、媒体が与えてくれる情報量が少ないほど、さらにそれでもその内容を理解しなくてはならないという状況にいるほど、人は頭を使うもの、あるいは使わざるを得ないと言えるであろう。これは面倒くさい話である。ということで、大概はギブしてくれる情報量の多い媒体に逃げることになる。ではどれがもっとも能動的であろうか。やはり面倒くさくてもそれに対峙する、という行動を取る、ある意味自分を奮い立たせている本がもっとも能動的であろう。
正しい答えがある場合、効率的に情報を得るにはテレビは非常に優れた媒体であると考えられる。勿論漫画もそうであり、積極的に活用することが勧められる。しかし世の中いつでもギブしてもらえる情報だけで解決できるものだけではない。特に実社会に出ると正解は用意されていない。この状況に対応できる能力を身に着けるためには、やはり嫌でも自分で能動的に取り組み、自分で考える力が必要である。そのための訓練として、やはり情報量の少ない媒体にチャレンジしておく経験は不可欠であろう。
というわけで、後期が始まるこの時期に、まず取っ掛かりとして、教科書を買いましょう。
Get the Freedom
もうすぐ4年生あるいはM2になる諸君は、将来何を糧とするかという選択で頭を悩ませていることと思う。悩めるということは、逆に言えば選択肢・可能性が多くあるということで、大学あるいは大学院に進学した甲斐があった、と考えてよいと思う。特殊な例外を除けば、何で喰っていくかの選択をする年代が低いほど、その選択肢は狭まる。中卒あるいは高卒で働ける職種はごく限られており、またその時に選択した職業以外に転職する自由度も極めて少ない。これは例えばスポーツや芸術でもそうであろう。勿論この種の分野で生きていこうと思い定めるのであれば、高校卒業まで待つことは時間の浪費であり、中学からその道に邁進しなければオリンピックなどは夢のまた夢である。しかし喰っていけるごく限られた一流になることができなかった場合を考えると、余程才能があるか本人の相当に硬い意思が泣ければ、お勧めすることはなかなか難しい。ついでに言えば、専門学校は既に職種を絞った教育機関である。
逆説的ではあるが、大学は高校までにこれで喰うという分野が絞り切れなかった者が、その可能性を広げるために進むところである、と考えることができる。つまり大学を卒業したものは、大卒以上しか募集していない職種は勿論、理屈上は中卒・高卒で就職できる職種で働けるはずである。また将来的にその他の職種をこなすことができる能力を持っている。大学院に進学することは、その自由度をさらに高めていると考えることができ、化学分野であれば新たに研究職という職種に就くことができるようになる。
ところが世間一般あるいは当事者も、この理屈は修士まで、と捉えている風潮がある。博士まで進学すると、逆に職種を選ぶことができず、進学するなら修士まで、というのが現状の常識である。確かにOD問題というものが良く取り上げられており、博士修了者が非常勤講師などで食いつないでいる例がマスコミに取り上げられることも多い。では本当に博士まで進学すると自由度は逆に減るのであろうか。
結論から言えば、それは単なる思い込みである。逆説的ではあるが、専門分野に拘って非常勤講師という職種しか選択しなくても、収入を得ることができる特典を得ている、という見方もできる。そうではなく、博士課程で確立した能力は、非常に高度で専門的な分野であっても処理・対応し、学生に代表される素人にも分かりやすく解説でき、また対処法を立案できる術を心得ているものと考えるべきである。そしてこの能力は多くの分野で需要の高いものであり、それを活かせる職種は多岐にわたるものである。自ら職種を狭めることをしなければ、やはり博士の持つ自由度は極めて高いものと考えることができる。実際に多くの博士経験者が、企業で極めて自由度の高い職種で活躍している。つくづく博士に進学することが、せいぜい5年間ほど慣れ親しんだごく狭い専門分野に留まり、他の分野に自分の能力を展開することを躊躇することに繋がってしまっては、大いなる損失と感じている。
学生諸君には今自分が持っている自由の度合いをさらに高めて行ってもらいたいと思う。またそのために修士・博士に挑戦してもらいたいと思う。八尾研究室ではそのための門戸は常に開けて待っています。但し、ブラックホールの入り口になるか否かは、自己責任で。
やさしさの限界
中学校卒業時に担任から、「中学の友達は大事にしろよ。もうこんな体験はできないからな。」と言われたことがある。もっとも個人的には在席していた中学があまり好きでなかったので、全くピンとこない言葉であった。何しろその頃の中学は非常に荒れており、トイレには窓ガラスがなかったり、バイクで廊下を走るやつもいるという状況で、とにかく早く高校に進学したかったのである。高校は、そのような視点から言えば極めて居心地が良く、完璧に温泉状態であった。大学では、さらにストレスなく生活していたように記憶している。多分これを読んでいる諸君は、うちの大学はもっといろいろなやつがいる、と思うかもしれないが、広い視野から眺めれば、実はたいしたことはないのである。つまり、現在の教育システムは、進学に伴いある種の選別過程を経ることで、教育現場は均質な人間を集めることを、意図的に実施していることになる。これは座学という、一種居心地の悪い教育を実施するには、基本的には学習レベルが似ているものを集めることが、教育には効率的であるから、という理由だけであろう。これに慣れるとわずかに個性が異なるだけで、極端に拒絶反応を示してしまうようになるので、注意が必要である。
ところが実社会は実は公立小学・中学と同じで、実に種々雑多な人間が集まって構成されている。勿論働く現場はまだそれなりに均質化されているが、それでも大学と比較すると雲泥の差である。私も一部上場の、一応大企業の研究開発本部で働いていたが、当時の構成員は、大学院卒とそれ以外が、ほぼ1対1で構成されていた。中には競馬に狂っているような人もいて、一気にバラエティーに富む世界に放り込まれた感があった。このカルチャーショックは、企業経験のない人には、なかなか判ってもらえない。
ではそのような社会は暮らしにくいのか、と言えば、実はそうではない、とこの頃思うようになってきた。確かに均質化が進んだ社会は阿吽の呼吸で物事が進むこともある。しかし少しでも変わったことをしでかすと非常に冷たい目で見られてしまう。勿論自分の価値観に合致しにくい人と触れ合うことは、相手の考えが分からないので、非常にストレスがかかることは事実である。しかし逆に、ある程度の多様性を認めることは、自分が今までの常識とは異なることを提唱する時などは、逆に生き易さを与えてくれるのではないかと考えている。いま非常に評判の悪い「ゆとり」という言葉であるが、様々な存在があるという多様性を認めるという心のゆとりは欲しいものである。よしんばゆとりがなくとも、多様性があることが自分の生き易さにつながっている、と認識することが必要であるかもしれない。極論に近いが、基準からずれるものを排斥していくと、逆にいつ自分が排斥される側に回るかもしれない、という危機感も大切であろう。人間だけでなくあらゆる生物も含め、その存在を認めることが大切であろう。とは言いながら、出没するとついつい殺虫スプレーを掛けてしまう生き物がいる。そう言えば、このような生き物でさえやさしく捕まえて窓から逃がしていた知り合いがいたことを思い出した。まぁ、近所からの評判はいまいちであったことも事実である。この辺りが限界かもしれない。
応援団のシーズン
9月の学会シーズンがようやく終了した。この期間、外食と不規則なスケジュールで体重が随分と増えることが一番きつい。まぁ、飲みすぎが一番の原因かもしれない。学会は、学生さんたちにとっては日頃の研究成果を不特定多数の人に聞いてもらい、その反応から自分の研究に対する立ち位置を再確認する、というのが大目標である。が、それは筋論で、開催地の特産物や歴史的な遺産に触れる自主勉強や、大学近辺とは違う雰囲気でのディスカッションが、長く記憶に残る財産になるような気がする。確かに多少の出費はあるかもしれないが、経験に勝る学習はない。また次のチャンスを積極的に捕まえに行ってほしい。
それにつれても、昨今気になることに、積極的でないことになにがしかの価値があるかのような勘違いが蔓延している傾向があることである。確かに老子の言葉には「功成り名遂げて身退くは天の道なり」という言葉があり、ある程度の実績を上げた人が些細なことにしゃしゃり出るのはあまりみっともよくないとされている。しかし学生さんをはじめとして、まだ確たる実績も上げていない者には、まず「功」を上げる必要がある。世の中は規則だらけのような気がするが、注意深くしていれば時々隙が垣間見える時がある。あるいはこの頃は大学や教員の方がいろいろな手配をしてくれているときもある。すかさず、残らず獲得するぐらいの気概があってちょうどよいぐらいである。勿論暇はなくなる。しかし暇を作って何をするのだろうか。
実社会では、有言をすると実行をせねばならず、それに付随して責任が生まれる。万が一失敗したときのことを考えると、「まずは大人しくしておこう」、という配慮も、これは十分に評価できる。しかし学生や若手研究者は、守るべきものよりも、獲得すべきものの方が多いのではないだろうか。また学生や若手研究者は、いわば「若い:という、ある意味セイフティーネットがある。この時期、積極さから出た失敗は決して汚点にはならず、評価の対象に転換することも可能である。(一時期はやった「武勇伝」というのはそのたぐいである。)
積極的に生きる人には、必ず応援団がついてくるものである。一方で消極的に生きる人にも、必ず優しい言葉をかけてくれる人がいる。時あたかもスポーツの秋である。できるならば応援団を持つようになりたいものである。
馬鹿笑いはチャンスである
「ラスベガスをぶっつぶせ(原題”21”)」という映画がある。詳細はWikiで調べてもらうと載っているが、学生が奨学金を得るために面接を受けに行ったところ、あまりにもまじめな学生だったので、逆に取り柄がないということで冷たくあしらわれるところから映画は始まる。ここが日本とは違うところで、米国では思わず引き込まれるようなことをやらかす人物に奨学金を提供するようである。そういえば、「ゴシップガール」というアメリカドラマでも、大学への進学は成績だけではなく、どれだけユニークであるかが担当教授の御眼鏡にかなうことが重要であることが示されている場面があった。ことほど左様に、競争の激しい社会では、きちんと裏付けの取れたエビデンスに従った根拠を持って、自己をどのようにアピールするかが重要であることが分かる。
振り返って、学生さんのレポートやエントリーシートを見ると、ほとんど代わり映えのしない、差別化がなされていないものばかりである。リクルートの特集記事によると、エントリーシートで書かれる内容で極めて多いのが、サークルの「副」幹事をやったという記述らしい。何とか自己アピールしたいが、きちんとしたエビデンスはない場合に、この役職が都合がよい、ということらしい。しかし、見るほうからすれば、「副」だらけで、読む気もなくす、というのが現実であろう。読み手がいる時には、読み手のことを考える、というのが鉄則である。誰もが書けそうなありふれた内容のエントリーシートが何十枚も来たら、自分ならどう思うか、ということである。
では、どうすればよいか。自分の経験を書けばよいのである。アルバイトやサークルのことを書く学生があまりにも多いので、これは避けるべきだと思うが、どうしても書きたければ、アルバイト先の名前を具体的に書くことから始めればよい。サークルでの具体的な会話を書く。自分の周りで起こった事象を詳細に、臨場感を持って再現ドラマのように書く。これだけで、先の映画まではいかなくとも、極めてユニークな経験となる。色々と取り繕っても意味がない。結局のところ、どの程度まで自己をさらけ出しても、愛嬌のある人間として、仲間として、認められることが大切になる。
人に語れる面白い経験をたくさんすることが大事ということだが、しかしだからと言って別にラスベガスに行ってギャンブルをする必要はない。よく周りを見回してみれば一目瞭然である。面白い人間がひしめき合って、色々とドジなことをやっているのではないか。そこから得られる教訓を書けばよいのである。馬鹿笑いして、そのまま忘れてはいけない。
短気な上司
いろいろなスポーツがあるが、その中でもアメリカンフットボールは試合時間が止まるというルールがある非常にユニークなスポーツである。大学時代にアメリカンフットボールを見に行く機会があり、非常にルールがややこしいとは聞いていたので一応調べたところ、15分ずつ4回に分けて戦うということで、なんだ1時間で終わるじゃないか、と思っていたところが3時間近くかかってしまった経験がある。これは実感しないと理解できないかもしれないが、アメリカンフットボールではラン攻撃では時間は止まらないのに対し、パス攻撃ではレシーバーが倒されるあるいは不成功の場合、そこでいったん時計が止まるのである。このルールを複雑に使い分け、攻撃と防御のしのぎを削るところがアメリカンフットボールの醍醐味である。特に最終の第4クオーターが凄まじい。相手だけでなく時計との駆け引きが繰り広げられるため,本来僅か15分の試合時間が1時間近くかかってしまうのである。
しかし考えてみると最初から同じような駆け引きは出来るはずである。しかしこれまでいろいろな試合を見てきたが、大体第3クオータまでは淡々と時間が消費されていくのが常である。なのに第4クオータの残り5分ぐらいからが気が遠くなるぐらい時間をかけて試合をするのである。
これからも、人間自分の持っている時間が少ないと気が付いてから、逆に時間を大切にするようになるんだな、と言うことが判る。教員も親も「時間を大切にしなさい」、とよく言うが、これは自分の持っている時間が少なくなってきていることに無意識に気が付いているためであるかもしれない。しかし学生諸君には、もう一つうまく伝わっていないようである。おそらくなんとなく時間は無限にあるように思っているのではないかな、と勘繰りたくなる時もある。しかし、だから良い経験が出来るときもあるので、一概に非難することは難しい。
ただ、社会に出た時には心がけて欲しい。上司の持っている時間はごく少ないのだ。そのことに配慮して仕事をして欲しい。
お金に困らないようになるために
実生活を豊かに過ごすために、まず必要なものはやはりある程度のお金であるとは思う。しかし何もせずに十分なお金を手にする人はほとんどいないであろう。特に学生諸君は、多かれ少なかれ、将来は自分で生活し、ある程度人生を楽しむためのお金を稼ぐつもりで、そのために役立つ知識や資格を得ることを目的として、日々勉学に励んでいるのだと思う。学生生活では、学科ごとに専門的な知識を学ぶことになっている。従って、もちろん学んだ専門知識は実社会を生きていくうえで最も大事なスキルであり、その分野の業務についているときには最も役立つ武器である。しかし専門が活かせる機会が少ない業種についたときには、実は身を守る盾としてはあまり役に立たない。
どのような状況におかれた場合でも、ある程度の緩衝材的な役割を果たし、時には逆に攻守を逆転してくれるものが、幅広い、ある意味無駄にも見える、教養と言う知識である。大学では非常に多くの教科を履修することができるようになっており、教養を身に付けるにはこれほど環境的に優れた場所はないと言ってよい。
専門以外の一般教養の講義は勿論、海外研修やアルバイト、そして何よりも卒業研究や修士・博士課程で経験する研究や学会発表などは、様々な教養を得るまたとない機会である。是非積極的に取り組んでもらいたいと思う所以である。
そして多分一番大事なことは、教養のある人はお金の無駄遣いをしないだろう、と言うことである。それがすなわち、もっともお金にあまり困らないコツかもしれないからである。
秋ではあるが
多分あまり評判はよくないだろうなと自覚しているが、担当している授業では半期に大体3回~4回レポートを提出してもらっている。一応強調しておきたいことは、提出されたレポートを全部読み、それらすべてにコメントを返しているので、実は読む方も大変なのだ、ということである。しかし、将来社会人としての対応力をつけるためには、授業にただ単に出席しているだけでなく、その都度の課題に素早く対応できる能力を身に付けることが必要であると考えているため、双方ともにそれなりの負担はあるが、その実力養成も兼ねて実施している所以である。
しかしながら、ごくまれに面白いレポートに出くわすこともあるが、大半のレポートが似たり寄ったりで、個性があまりないのが実情である。他のサイトのコピー・ペーストもちろん論外であるが、そうでないと思われるものでも題材や切り口がほぼ同じで、正直飽きてしまうことが多々ある。
漸く最近分かったことは、学生諸君は「レポートとは調べたものを報告することである」という勘違いをしている、と言うことである。そのように勘違いしているから、コピー・ペーストも違和感を覚えない、否、コピー・ペーストの方が調べたものを正確に伝えることができる、と言う解釈となる。これが大きな間違いである。
レポートとは、出題者に対して自分と言う人間を知ってもらうための自己紹介のための手紙と考えるとちょうど良い。大体の大学教員は、学生は多かれ少なかれ「サボり」である、と言う先入観を持っている。それに対して、「私はサボりではない」という自己アピールのためのステージである、と考えてもらいたい。そのためには、調べたものに対し、自分の経験を踏まえて考え、その結果を述べることが必要である。一番良いのは、自分の具体的な経験を織り込むことである。これは即ち素の自分をさらけ出すことに他ならない。ここにレポートを書く意義、評価に使う意味がある。
と言うことは、日頃から素の自分を磨いておかねばならない、と言うことである。ある程度は体も鍛えておく方が良いかもしれない。時あたかも食欲の秋である。あまり食べすぎ、「太った豚」にならないように心掛けておく必要があるかもしれない。
GKに負けない
コピー・ペーストでないレポートを読むと、学生諸君の率直な意識を垣間見ることが出来、非常に勉強になり、その学生諸君に対する印象が格段によくなる。やはり借り物の張りぼては、インパクトが弱いだけでなく嫌悪感さえ覚えてしまうので、要注意である。
その中で気になったフレーズに、「同じ大学生なのに、文系と理系は全く厳しさが違う」と言うものがあった。同じ大卒と言う肩書を得、社会人となり、ほぼ同じ給与(場合によっては文系の方が高い)をもらうしかし、よく考えてほしい。うすうすそのようなことに気づいていながら理系を選んだのではないか。その時にはそれなりの(理系の方がつぶしが効く、就職も良い、技術や資格が身に付くなど)の理由があったのではないか。あるいはどうしても文系科目が苦手、などの消去法での選択であったかもしれないが、それなりの理由はあったであろう。
頭の良い学生諸君のことであるから、人間は平等ではない、と言うことは既に承知のことであろう。生まれ育ってきた過程も異なれば、最終的にたどり着く終着駅も違うのである。それを同じ大学生なのに、という視点に立つこと自体が、破綻している根拠にすがりついて言い訳を探している、とも捉えられる。
では人間はどこまでも不平等なのか。考えるに、この世界で「生き延びていく」、という権利だけは、皆平等に持っている。実は地球上で生命があるものは全てこの「生き延びていく」と言う権利を保有し、それを遂行するために切磋琢磨しているとも考えることが出来る。
勿論そのために、例えば人間は他の生物の「生き延びていく」という権利を剥奪もするのである。企業も他の企業のこの権利を剥奪するのである。冷徹に分析すればそのようになる。
大学生と言う身分は、一応は納得して、他人を蹴落として得た立場である。とすれば、まずはここを基盤として「生き延びていく」権利をフルに使うことが大切であろう。くれぐれも誤解の無いように繰り返すが、「しがみつく」や「意地を張る」ことではない。賢く「生き延びていく」ことが大切ではないか、と言うことである。
さて、少し重い話になったが、いつも冗談のように言っていることがある。それは、あらゆる地球上の生物はいつか人間にとって代わってこの世界を席巻するために、今この時代を生きている、と言うことである。従順な犬も可愛い猫も、あるいはGKも、今は仮の姿である。今の世の中で行きやすいようにふるまいながら、虎視眈々と人間の隙を狙っているのである。
「逃げる」ということ
入学や進級、あるいは就職して2か月ほど経過したこの時期、ちょっと想像していたのとは違う、と感じる人も出てきているかもしれない。すぐに復帰できれば良いのだが、人間思いつめはじめるとそちらの方に思考のスパイラルが回り始め、やがて中途半端に現実逃避に入ってしまう。本来ならばすべて振り切って、とにかく行動しはじめるしかないのだが、これにはある程度の活性化エネルギーが必要であり、ズルズルっと一日延ばしにしていく間に、さらに取り返しがつかなくなる、という循環である。これを避けるためには、やはり「逃げる」しかないときもあると思われる。しかし一方で、「逃げるな、努力しろ、挑戦しろ」という、これまた正しいアドバイスも存在する。
現時点での結論から言うと、目的を持った「逃げ」は推奨しても良いかと考えている。逃げてはだめだ、と考えて、最終的に精神的にも肉体的にも取り返しがつかなくなるよりは、適度に逃げた方が良いと思われるからである。
宮城さんの書かれた三国志で、宮城さんは蜀を建国した劉備ほど逃げた人間はいない、と言っている。彼はある時には妻子までも見捨てて逃げるという、非人間的な行動もしているのである。しかしそれが非難され、部下が離れて行ったかと言うと、そうでもない。このように考えると、逃げられるだけの実績を積み重ねておくことが大切と言うことに気付く、つまり、まぁ、彼の目的・存在価値が、そのような行動をも看過されるという、「彼なら逃げてもしかたない、あるいは逃げた方が良いだろうという」、周りからのコンセンサスを得ることが重要と言うことになる。
突き詰めて考えると、生き延びると言うことが大事、と言うことになる。積極的に逃げて生き延びるためにどうすべきかということかもしれない。しかしまぁ、通常はそのようなことも考える暇もなく、勉強や仕事に追いまくられている方が、普通かもしれず、悩み少なく生きていけると思われる。どちらかといえば、そのように過ごすことをお勧めしたい。
観察か考察か洞察か-2
思わず思い出話をしてしまい、2本立てとなってしまった。
話を元に戻して、論文のスタイルとしては、最小限のデータとそれに基づいた理論的な考察からなるものが、基本的に正しいのではないかと考えている。
最新の分析機器から得られる生データや写真を羅列したものは、確かに分析機器の性能をPRするものではあるが、どちらかといえば観察日記のようなものである。結論として、最新の分析機器がなかった時代に導き出された仮説が成り立つことだけを導き出すのではいかにもさびしい気がする。
まずは手持ちのデータをよく見返してみて、生じている現象の発現因子を考察する。さらに、既存の理論・理屈で説明が出来ないのならば洞察し、自分の世界観を確立し、これを世に問うことが大切であろう。そこまで大げさでなくとも、少なくとも会社であれば上司に、大学ならば教員には、出力結果だけでなくそこから考察される、さらには洞察される諸々をディスカスできるようになってもらいたい。
基となるものはどのような些細な出力でも構わない。もちろん場合によっては、無視されたり非難されることもあるかもしれない。しかしそれを証明するために必要不可欠な分析を行うのが筋であり、あるから利用するのではないであろう。また自分の世界観を持たずに出力結果のみを並べ、考察を他人に委ねてはならないということである。
但し、基本が欠如していると、洞察しているつもりが妄想しているだけの場合もあるので、気を付けなければならない。
このようなことを、実は最近の自分の論文を見て、自省しているところである。
観察か考察か洞察か-1
思い返してみるとパソコンで図表を書くようになったのは1995年ぐらいからではないだろうか。それ以前は皆せっせとロットリングで図表を書いていたものである。一枚仕上げるのに20分ぐらいかかる時もあり、ホワイトの使い方で名人と言われていた人もいたと思う。論文も手書きであり、何回も校正を繰り返していたような気がする。従って、自然と論文中の図表の数も少なく、一つのグラフから読み取れることを延々と述べるのが一般的なスタイルであった。
ここで一つ思い出すのが、やはり1990年代のとある年の高分子夏季大学での出来事である。夏季大学の詳細については高分子学会のホームページを参照していただきたいが、ここでは実に多種多様な講師から、高分子の基礎に関わる講義を聴くことが出来る。さて、会社から多額の参加費を払ってもらって派遣されていたにもかかわらず、メモも取らずにただ聞いていた不真面目な参加者のその隣には、某企業からやってきた若手研究者が、講師の講演内容を凄まじい勢いでノートに書き写していた。勿論本来はこれがあるべき姿なので、学生諸君には就職したなら見習ってもらいたい。
閑話休題、隣を眺めながらこのような反省をしていた時、続いて出てきた講師がその分野では知らない人がいないというM先生であった。当時はOHPで講演するスタイルであったため、数十枚のOHPシートを手に壇上に上がってこられた。これからこれらを使って、1時間の講義が始まるのである。
結論から言うと、この時使用されたOHPシートは3枚であった。3枚目から4枚目に移ろうとはするのであるが、3枚目のグラフから読み取れることを解説している間に講演時間が終了してしまったのである。これは隣の研究者にはピンチである。グラフが変わらないと書くことがなかろう、といらぬ心配をして横を覗いてみると、彼はただ一言、「感動した」と書いていた。
彼が講義内容に感動したのか、わずか3枚のOHPシートで1時間話す技量に感動したのかはわからないが、たった1枚のグラフからでも見る人が見れば実に多くの示唆に富むデータが隠れていると言うことは事実である。「神は細部に宿る」という。昨今の分析機器から得られる情報は、あらかじめ決められた出力だけである場合が多い。しかし僅かの異常値を見逃さないことが新しい研究の糸口になる。
楽な仕事
2月、3月のこの時期、3年生、修士1年生の就職活動は一つ目のピークを迎えているようである。それまでラフな格好をしていた学生さんたちがきちっとしたスーツを着ている姿を見ると、馬子にも衣装とも思うし、反面窮屈そうで早く脱げるようになることを祈ってしまう。
この時期「楽な仕事ってないですか」という、半分冗談、ほとんど本気という問いを受けることもある。楽な仕事は仕事ではないかもしれないと思いながら、比較的楽な仕事はあるような気もするので、この手の質問は手強い。考えるに、おそらく人から仕事ぶりを批評される頻度が高いほど、ストレスが溜まる確率が高くなることは間違いないと思われる。勿論高く評価されれば脳内にドーパミンが噴出するので、気分が高揚し、多少ハードな仕事でも気にはならないと思われる。ちょっと話は変わるが、周りからよいしょされる環境に慣れた人は、驚くほど異様な全能感を持つようである。このような人物の近くにいると判断基準がおかしくなる可能性があるので、少し離れた方が良いかもしれない。
さて話を元に戻して、逆に想定以上に低くしか評価されない、あるいは数字で成績の低さが明確に示された場合、肉体的な疲労とは別に精神的にひどく疲れを覚える。結局は関わる人の数が多いほど、手ひどい批評をする人の数も増えるので、話の分かる人だけのコミューンで暮らしていけるめどが立つならば、その方が楽である確率が高い。例えば田舎にある研究所で、実験装置相手に研究して暮らす方が楽である確率が高い。しかし給与は低いかもしれない。反面、都市部、特に東京とその近郊は、人とかかわることが仕事になる。如何に多くの人とのネットワークを持っているかが、その人の大きな価値として評価される。ストレスの溜まり方は半端ではない。個人の技術力・能力ではカバーしきれない、派閥や所属する企業での肩書などで評価されることも多いであろう。その代り、ある程度の立ち位置を確保できれば、高い賞賛を得ることが出来る可能性があり、それに比例して収入も高くなるかもしれない。できる自信があれば、やりがいは高いかもしれないが、現実は甘くないと痛感するかもしれない。
どのような仕事に就くか、どちらが好みかも、個人的な適性にも依存し、結局生き甲斐をどう感じるかは実際に仕事をやってみないとわからない。「今はこんな状況だな」、と冷静に判断できる視点を持つことが大事であろう。
強者の論理
就職するにしても、大学院に進学するにしても、はたまた食事をするにしても昨今はガイドブックがないと始まらないらしい。究極的には、生きていくにしてもいろいろな指南本が本屋の棚を埋め尽くしている。
著者は所謂成功者だから、書いてあることはまことに結構なことばかりである。残念なことは、大体どれも似たり寄ったりのセリフで埋め尽くされていることぐらいであろうか。
では、実際にこのような本が読者にとってどの程度役立つ可能性があるのだろうか。
結論から言えば、本はどんな本でも読まないよりは読む方が良い。これは間違いない事実である。しかし指南本通りに行動できるか、あるいはすべきかは、また別問題である。
これまで多くの人達と会ってきて感じることであるが、人が持っているエネルギーは千差万別である。とにかく働いていないと気が済まない、働いていることが実はリラックスしているという人もいれば、なんとなく1日を過ごす術を身に着けてしまった人もいる。
指南本を書くような人は、どちらかといえば前者であろう。その人と同じポテンシャルを自分は持っているか、をよく顧みないといけない。彼らには「何故これが出来ないのか」が判らない。読者には「何故そんなことを継続できるのか」が判らないのである。読んだ直後は、著者のエネルギーが乗り移っている。実はそれが快感なのであるが、その快感を得るがためだけに、指南本ばかりを読んでいても実益はないと、冷静に考えるべきかもしれない。
世の中は強者の論理通りには動いていないのである。否、強者の論理通りに動く世の中は、実に住みにくい。指南本全盛の時代、そのような危惧を覚えている。
やってみよう
この頃経営者でも会社から貰う給与のことばかりを気にしている人も多いようであるが、厳密に言えば、経営者はサラリーを払う方、一方は社員は働きに応じてサラリーを受け取る人と定義できる。さらに、経営者は複眼的に幅広く物事を見て経営方針を立てるのに対し、社員は単眼的に目の前にある仕事をこなすのが役割である、と言うことがもっと大きく異なる。そしてこれを理解していないがために、多くの悲劇がそこかしこで引き起こされている。
経営者は常に新しい事業を模索・構築する責務がある。有望ではないかと考えられる事業に対しては、経営資源を投入し、その事業が果たして本当に有望であるか、あるいは自社にフィットしているかを確認しなくてはならない。そこで比較的有望であろうと思われる社員をピックアップし、対象となっている事業を託すのである。経営者視点からいえば、うまくいけば自分の経営手腕が正しいことが証明される、しかし失敗したとしても、その原因などが解析でき、他の分野に展開できれば成功である。一方託された社員にとっては、失敗することは自分が会社的に、あるいは社会的に失格と言うレッテルと貼られるという危機感を持つ。逆に言えばそれぐらいの危機感を持たないような社員には、新規事業は委託できないという経営者の事情もある。運よく成功すれば、新しい事業と新しい経営者候補が生まれる。しかし逆の場合はどうであろうか。
失敗してもめげることはないのである。失敗した原因をきちんと解析し、新たな提言をすればよい。胸を張って良いのである。その方が企業にとっても得るものが多いであろう。しかし日本の社会は、所謂失敗者に冷たい。池に落ちた犬に石を投げることに誰も躊躇しない。その結果として、果敢に挑戦する社員がどんどん減ってきているのである。もし経営者もその尻馬に乗っていたとしたら、人間としても如何なものかと思われる。社員は自社の風土がどのようなものであるかを冷静に見ている。
さて、ちなみに研究も同じである。指導教員は結構思いつきで次の研究方針を立てているものである。院生は結果に対して謝る必要はない。研究に失敗はない。原因と結果があるだけであり、その因果関係をきちんと解析すればよいのである。やればやるだけ成果はでる。積極的に研究に取り組んでいってもらいたいと思う所以である。
君側の奸
古今東西、君主や為政者の数には限りがない。以前はいわゆる名君や名宰相と呼ばれてきた人たちが、上に立つ人物として見本になる人であろうと考えてきたが、到底自分はその足元の蟻ぐらいの存在であるということで、昨今その考えが変わってきた。現時点でもっともすぐれた人は、斉の桓公ではないか、と考えている。
中国の歴史に明るい人ならば、意外感を覚えるかもしれない。桓公がおおよそ名君ではないのは有名な話である。しかし彼は自分が統治能力に欠けることを知っており、全てを管仲にに委ね、春秋の覇者となっている。つまりその偉大なところは、どのようなことがあってもすべてを管仲に委ねきったところにあると考えられる。管仲ならばうまくやってくれるという信頼を保ち続けたと言うことは、素晴らしい洞察力である。しかも驚くべきことに、決して名君と言われていない桓公の周りには、奸臣があまりいないのである。勿論側近の管仲や鮑叔の配慮もあったであろうが、上に立つ人間の周りには必ず甘言を述べる輩が輩出するはずであり、多くの場合その結果として途中で堕落するのが常であるからである。勿論管仲や鮑叔をほめる人が多いのは承知であるが、凡人が見習える名君としては、桓公が相応しい人物ではないかと考えている。
現在でもよく、「部長(場合によっては社長でもOKです)は悪くないんだが、側近の課長(あるいは専務でもOKです)がいるので、成果が上がらない」という愚痴を聞くことがある。所謂、君側の奸により政治が乱れる、というシチュエーションである。しかしよく考えてみよう。もし仮に本当に部長が本来は出来る人ならば、足を引っ張るような人の言うことは聞かないはずである。つまりその時点で部長は「本来できる人ではない」ということである。側近が入れ替わったところで、すぐに元に戻る事は明らかである。つまり「君側の奸」が生まれる主要因は「君」にある、と言うことである。このようなことが明白であるならば、つまらない愚痴を言う前に見切りをつけた方が良いかもしれない。見切りをつけずにこのような台詞を述べつづけている人は、「俺の意見を聞けよ」と考えているわけで、つまりは隙あらば自分が側近になりたいという意識があることになる。つまり自分が「君側の奸」になりたがっているのである。
難しいことであるが、よくよく自律する意識が必要である。
身内に敵を作る心理
家族にしろ組織にしろ、身内と言う存在は多少面倒くさいものである。なぜ面倒くさいのかといえば、同じ釜の飯を喰う以上、利害が交錯しやすいからである。これは例えばテレビのチャンネルであったり、夕食のおかずを思い浮かべればよい。組織であれば予算であり人事である。些細なことではあるが、あまり見たくない(これが既に我儘なのだが)本性を垣間見る機会が多くなり、欠点(これもあくまでも自分視点から見た場合に限るのであるが)を見てしまうからである。これが積み重なると互に顔を見るのも嫌になってくる。
ところで、このような癖が強い人は一方で、外部に対しては理解者が多いと勘違いしているものである。しかしこれはある種当たり前である。利害が交錯しなければ、あるいはたまにしか会わない相手であれば、敢えて心情を害することをすることは大人の行為ではないからである。しかし相手の理解ある態度を誤解して甘えた行動に出ると、瞬時に利害が交錯する相手に変わる。
世の中にはこのような癖の強い人と、あくまでも身内を大事にする人の2種類が存在するようである。これは結構強い癖のようで、身内とけんかする癖のある人は、どの組織に異動しても、いつの間にか同じことを繰り返してしまうようである。これを俗に、「身内に厳しく外に甘い」、という。多くは自分の考えに強い自信を持ち、それを周りに拡張することを厭わない、ある種エネルギーの強い人のようである。これを読んでいる方が(あまりいないかもしれないが)、「これが正しい」、「こうすべきだ」、「こうしなさい」と身近な人に言うことが多ければ、多少そのような性癖を持っているかもしれないと疑ってもよいかもしれない。
しかしよく考えてみると、本当に窮地に立った時、一番頼りになる存在はある意味一番かかわりが深い存在である、家族、同じ職場の同僚、同じ組織のメンバーであろう。確かに厳しい規範を身内に対しても適用することは、一種の美徳である。ただ、それを踏まえても、身内に対してはどこか甘いところがあるぐらいが適当かもしれない。
隠された意図w読み取る-2
先の雑話では、古来は「和」を「やまと」と呼んでいたのではないか、そしてその国の支配者は「やまと」族であったのではないか、と述べた。この氏族が脈々と受け継がれ、大王となり、斑鳩時代まで受け継がれてきたとする。その時、大きな危機がこの一族に訪れた。即ち蘇我氏の台頭である。この危機的状況で「やまと族」の最後のホープとして登場してきたのが聖徳太子である。聖徳太子に関しては、本当に太子であったのかなど、いろいろと考えることもあり、それに関しては別途述べたいと思う。
ともかくも聖徳太子の行った施政で、現在までも日本人の行動を規制しているものは、十七条の憲法の第一条、「以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。」である。前文全てを知らない人でも、一番最初の「和をもって貴しとする」の言葉は、頭の中に染み込んでいると思う。前回の雑話を読んだ人ならば「和」を「わ」ではなく「やまと」と置き換えることに抵抗はないであろう。置き換えて読んでみると、「やまとを持って貴きとする」、すなわち「やまと」氏をもっとも尊重すべき氏族とする、という宣言と読むことが出来る。置き換えて全文の意味を述べるなら、「「やまと」氏が最も貴い氏族である。これに逆らってはならない。人にはそれぞれ党派があり、人格者は少ないものである。このため君主などに逆らい、争いが起こる。しかし、「やまと」氏を長とし下が従い、理論により物事を計れば、すべて上手く運び、何事もならないものはない」と言うことになる。これは高らかな「やまと」崇拝宣言である。
何事にも隠された意図がある。すべてをうのみにしない方が楽しいことが多い。
隠された意図を読み取る-1
奈良県の天理市に「大和神社」という、それなりに由緒ある神社がある。これは「やまと」神社ではなく「おおやまと」神社と言う。つまり、「和」一文字で「やまと」と呼ぶ。おそらくは、本来はこれが正式の読み名であったと思われる。以下は非常に勝手な推察なので、そのような考えも可かな、程度に受け取ってもらいたい。
そもそも魏志倭人伝では、所謂日本列島あるいはその付近に「倭国」があり、そこからの使者が来たと記載してある。ここから既に個人的な妄想であるが、この時使者は「わがくにでは」と言ったのではないかと考えている。これをそのまま国名と勘違いし、また体格的にもそれほど立派ではなかったのか、所詮東夷の国と言うことで「倭」と言う字を当てて表現したのではないかと考えている。しかしこの国を治めている部族は、実は「やまと」族であったと考える。国がそれなりに整備されたときに再度中国に使者を派遣する。その時は間違えないように「やまと国」と告げ、これが「邪馬台国」と記載されることになる。しかしながら、相変わらず日本そのものは「倭」国と称される。もちろんこの漢字自体の意味が良いものであれば文句はないが、実のところ蔑称である。これらを解決するために、発音は同じでも意味が非常に良い「和」の字を持って日本を表し、それをそのまま「やまと」と訓読みすることにし、両者を一挙に解決したのが現実ではないかと考える。もっとも中国にまで「和」が定着したかは、定かではない。ともかくも国内をそれで統一したのであろう。その後「やまと」族の支配地は広がり、ほぼ日本列島を統一するまでになる。つまり単なる「和(やまと)」ではなく、「大和(おおやまと)」なのだ、という自負を、標記神社の名前はうかがわせているのではないだろうか。
いわゆる一般社会常識から外れた言動を取っていた人物が、心を入れ替え(?)まっとうな(ごく普通の)社会生活を営み始めた時に、一般社会がその人に高い評価を与えるという傾向に、以前からどうも腑に落ちないなぁ、と感じていた。確かにそのこと自体は、一般社会にとっては、自分たちの価値観が認められたことでもあり、歓迎すべきものであろう。しかしその価値観に従って、常に真面目に生きてきたものに対しての方が、本来はもっと高い評価を得てしかるべきではないだろうか、と納得しかねるものがあった。
つらつら考えての一つの結論は、世間は「努力した」という経緯を評価するのだ、と言うことである。つまりこれまでの言動を反省し、社会通念に従った生活態度を獲得するために努力したというその過程を評価し、将来的にもまた努力できる人物になっただろうと言う、その潜在能力に敬意を表しているのであろうということである。
考えてみれば受験も同様であり、その過程の結果として獲得された証拠であるいわゆる学歴が、社会で人物評価のための一つの判断材料として定着していると言え得る。もっともこれはあまり信頼性の高い指標ではないのも現実である。学歴で言えば、あれっ、と首をひねるような経験をした人事採用者も多いであろう。
一方「サボった」という証拠に対しての世間の目は、非常に厳しいものがある。つまり、これまでまっとうに生きてきたものは、逆に少しでも気を抜くと評価が下がってしまうということである。なんだか不公平な気がするが、これが一般社会通念であろう。
学生さんにはできるだけ多くの「努力した」というエビデンスを獲得して、胸を張って次のステップに臨んで行ってもらいたいと考えている。勿論一番重視されるのは学業であろうが、余力も持って、他の挑戦し甲斐のあることにも取り組んでもらいたい。くれぐれも「サボっている」と自分でも反省してしまう行動を取らないことである。まず「努力している」という主体的な認識が持てる行動を起こすことが大切であろう。
なお、このような考察はあくまでも一般社会でごく普通に生きることを想定してのことである。もっともこれを読んでいる人は、多かれ少なかれその範疇に含まれる人と思われるので、あまり大それたことを考えない方が良い。
ちょうどよい
よほど卒業後すぐに起業する人を除き、多くの人は会社など、ある組織に所属することになると思う。
勿論所属した組織あるいは部署に馴染まなければならないが、あまり馴染みすぎるのも考え物である。
旧来から、「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言われており、また巷にあふれるビジネス書には「一つ上の階級になった気分で」と書かれているが、
そこまで大げさでなくとも所属組織にとって「ちょうどよい」人間になるのは考え物である。
「ちょうどよい」人間は、もしかすると他のちょうどよい人と入れ替わっても、ちょうどよいのかもしれない。
そしてこれは実に「ちょうどよくない」、つまり都合の悪いことである。
べったりと馴染むのではなく、少し異なった視点で組織を眺められる見識を持っていること、そして少しづつでも変化をもたらしてくれる実行力があること、
言い換えれば所属している組織にとって、ここに居てくれることがちょっともったいない、という評価をもらうぐらいが、よい立ち位置かもしれない。
つまり、「ちょうどよい」ではなく、「ちょっとオーバースペック気味」程度が、実はちょうどよいとも考えられる。
専門知識の賞味期限
DuPontというアメリカの化学企業の変遷を見ていると、主要な製品が約20年周期で変化していることに気がつく。
つまり企業の屋台骨を支える製品というものは、20年程度しか持たない、ということである。
そうすると、専門知識の賞味期限はどの程度になるだろうか。
仮にある専門知識を求められて、企業に入社した場合を想定する。求められるということは、企業が既に該当する分野の製品を取り扱い始めていると想定できる。
これを約5年と設定する。すると残りは15年となる。24歳で就職した場合、39歳で自分が持っていた専門知識が不要になるかもしれないのである。
後20年近く、どのようにして生きていくのか。
このことはつまり、生きていくためには常に自分の専門知識を変形し、拡張し続けなければならないことを意味している。
社会に出てからこそが、勉強と言える。行きかえりの電車で漫画を読んだりゲームをしたり、あるいは休日にパチンコにいくなどうつつを抜かしている暇はない、ということになる。
頭では分かっていても現実はなかなか、ではあるが、まずは頭で分かっておくことも必要だろう。
修士に進学するということ part2
前回修士進学について少し突き放したようなことを書いたので、違う観点から一言。
修士に進学することを、もっと勉強しなくてはいけない、と捉える学生諸君が多い。しかしながら事実は少し違う。
勿論勉強はしなくてはいけないが、学部とは異なり自分の好きな勉強だけをすればよいことになる。従って心理的なストレスは相当に低くなる。
しかも自分の好きなことをしていながら、周りから一定の評価を受けるという、非常に気分の良い立場に立つことが出来る。
その意味では、修士というのは、学生生活では最もハッピーな時期とも解釈できる。是非多くの学生諸君に経験してもらいたいと思う所以である。
ところでこれはまた別の話であるが、この状況にどっぷりとつかると、博士課程に進学したくなる。博士はもっと自分の好きなことをして、しかももっと評価される。
しかしながら気をつけないと徐々に人格が破壊され、社会復帰できなくなる可能性も高くなる。
ODの悲劇はそのあたりに原因があるかもしれない。
レポートを書くときの基本的な心構え(ノウハウと言ってもよい)
1.テーマと決める。(特に主張したいことを絞り込む)
2.そのようなテーマを思いついた背景情報をとにかく集める。
3.背景情報を見ながら、ストーリーを構想する。
4.ストーリーにあった背景情報を抽出し、ストーリに従って並べる。
5.緒言を書く。(実はこれが非常に重要)
6.注釈を加えながら背景情報を、体裁を考えながら並べる。
7.結論を述べる。
一般に「起承転結」と言われるが、レポートの場合は「起承結」でよい。
レポートの根本:最も大事なこと
読む相手が気分を害することなく、気持ちよく読めるものを書くという姿勢。
大学であっても、上司に対する報告書あるいは人事部に提出するエントリーシートと同じ姿勢で書くこと。
レポートは後々まで残るものである。甘えてはいけない。
修士に進学するということ
学生諸君に「修士に行くと何がよいのですか。」と聞かれることがある。真剣に考えると、何がよいかはよくわからない。
特によい企業に行けるという保証もないし、よい生活ができるという保証もない。
つらつら考えて現在思いついたのは、「修士に行けば、やりたいと思える仕事で食える確率が高くなる、
あるいはやりたくない仕事をしなくてはならない確率が低くなる。」ということである。
世の中なかなか絶対というものはあり得ない。なるべく確率を高くするのが精一杯である。
多分やりたいと思えることに近い仕事に従事する方が、満足感が高いであろう。修士に進学するということは、その可能性を高めることになると思われる。
Copyright;Yao Laboratory