前回に引き続き,松山出身の秋山兄弟をご紹介いたします

弟真之も日露戦争中の日本海海戦で東郷平八郎の参謀としてロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊を撃滅しています。日本海海戦前の真之の電文「本日天気晴朗なれど波高し」は有名で,海軍きっての名文家といわれました。

この海戦で世界海戦史上類を見ない圧倒的勝利を収めたのですが,その理由の一つに伊予水軍伝来ともいわれる敵前旋回の「丁字戦法」をとったことがあります。ちなみに,秋山家の先祖も伊予水軍だったようです

真之は,十五のときに年の離れた兄好古を頼って上京し,親友正岡子規と神田に下宿していたこともありました。東京大学で文学をやるつもりだったのです。その後,進路を変え,海軍兵学校を主席で卒業し,三十になってアメリカに留学しています。

このとき,米西戦争でのアメリカ艦隊の活躍を目の当たりにするという幸運に巡り合っています。アメリカ艦隊はスペイン艦隊をキューバ軍港に封鎖しようとしたのです。これは港口に汽船を自沈させるという世界最初の閉塞作業で,後の日露戦争での旅順港封鎖に使われたのです。兄と同じくエリート軍人の道を歩き始めたのです。

同じく日露戦争の黄海海戦でも丁字戦法を使っています。これが後の日本海海戦に向けた絶好の実戦訓練となったのです。

真之は日本海軍の頭脳として「知謀湧くが如し」 と称されましたが,惜しまれながら四十九歳で病死しています。兄好古の「男子は生涯一事をなせば足る」という言葉通りの人生でした。

瀬戸内海を望む梅津寺の丘の上に,秋山兄弟の銅像が建っています。秋山兄弟は鼻が高く、日本人離れした顔をしていたそうです。特に兄の好古は背が高く、よく外国人と間違えられたといいます。近代国家形成期の明治時代に,秋山兄弟は期せずして共に軍人となり,日露戦争で日本の勝利に大きく貢献しています。

御幸のロシア人墓地には,今もロシア人捕虜が眠っています。