小泉八雲ことラフカディオ・ハーンのアメリカ時代の話を続けます。

ハーンの最初の同棲生活は,女性の方が居た堪れずに逃げ出して終わったようです。当時,白人と混血黒人の交際はタブーで,ハーンもオハイオ州のシンシナティを去ります。

捨てる神あれば拾う神ありで,シンシナティ時代の文章が認められたため,ミシシッピ川河口のニューオーリンズで新聞副編集長や文芸部長の職をみつけるのです。ハーン三十前後の頃です。ハーンは絵もプロ級で新聞に挿画を書き,発行部数を伸ばしたそうです。

三十代に,ハーンは新聞記者から作家へと着々と転身を計っていたようです。フランス文学の翻訳や紀行文,小説を次々に出版していきます。この間,カリブ海の西インド諸島で二年程過ごしています。異文化体験も板に付いてきたようです。このとき,あらゆる自然に霊魂が宿るとするアニミズムに接しています。アニミズムは,母系の古代ギリシャの多神教とともに,すぐ後の来日に際して神道への理解を早めたようです。

ハーンは四十にして初めて日本に来ています。ニューヨークのハーパー社の通信記者として,紀行文を書く約束だったのです。しかし,挿絵画家よりも給料が安いことを知り,島根県松江中学の英語教師になります。

私も松山大学に赴任して瀬戸大橋ができたばかりの頃,一人で島根に行ったことがあります。島根には,出雲大社を始めとした古代の遺跡があり,これがハーンを惹きつけたようです。現代の日本人にもうまく説明できない神道に興味を持ち,明治時代の日本人の心に迫ろうとしたのです。その代表作が晩年の『怪談』です。

『怪談』の平易な文章は,中学校の英語の教科書に載るほどです。しかし,その枝葉を削り取った『怪談』の文章は,深く日本人の心に刻まれる名文となっています。新聞記者や紀行文学から出発したハーンは,どのようにして『怪談』を著すようになったのでしょうか。次回はこの話をしてみましょう。